日本と中国論

さて、今日帰国だ。6月26日に羽田から上海に入ってから、4か月半ぶり。その間、杭州、大連、西安、洛陽、開封、鄭州、北京、昆明、桂林など旅行にはかなり行ったが、日本に戻るのは初だ。

ということでいい機会なので、今度の帰国では2日間だけだが、日本のいいところの再認識、そして日本の悪いところの認識をして来ようと思う。

例えばこちらで感じたことがある。それは、主張をしないこと。
よく言われることだが、日本人は「空気」の文化を持っているので、人のことを批判することが苦手だ。というより、人のことを批判することにつながる表現を使うのを嫌う。

例えば、友人と話している時に、「これからは海外での生活経験がないとダメだ」と言いたくなった場合、彼らの中に海外に行ったことがない人がいれば、「海外での生活経験は大事だ」と、オブラートに包んだ表現に変える。

こっちでは違う。「これからは海外での生活経験がないとダメだ」と言ってしまう。反論があればすればいいという考え方だ。「海外での生活経験も大事だが、それは必須ではなく、最も重要なのは継続して努力することだ」と言えばいい。もちろん当初発言をした人間だって、それに納得すれば認める。

つまり表に出たコミュニケーションの中で適正化を図っていく。日本人は、「空気」という既に適正化を図られている(と思い込んでいる)場の中で議論をすることが多い。
もちろんこれは簡単にモデル化したものだ。そうでない日本人もいる。しかし、こうやって言い訳、補足をしてしまうところが、まさに日本人らしい考え方なのだと思う。

これは自覚している違いであるから、おそらく日本に帰った時は、自分もまた日本人的な会話をすることになるだろう。しかし、無自覚に変わっているところがもしかするとあるかもしれない。そういうことを知ることができればいいな。


一方、一昨日ご飯を一緒に食べていた建築系の人が言ってた話なのだが、中国は本来文化大国なのだから、それを失ったらいくら経済大国になっても誰も見向きしなくなると言っていた。たしかにこの国で文化を守ろうとしている人は極めて少ない。洋務運動の時も西洋の技術だけを取り入れて、考え方を取り入れなかったから近代化に失敗したらしい。マルクス主義も革命の正当化のために必要な部分だけ取り上げて、本質的なところは教えていないらしい。
日本人は人のものを取り込むのがうまいが、中国人は人のものを取り込むのが下手だ。これももしかすると見栄の文化が関わっているのかもしれない。しかし、人のものを取り入れるというのは自分の文化を失うこととは違う。逆に表面的な部分だけ真似していると、自分の文化を失いがちだ。
詳しく研究してるわけでもないので偉そうに言えないが、大躍進の頃まではよくも悪くも中国らしかった、しかし文化大革命で伝統的な文化を否定し、改革開放で文化大革命を否定し、市場経済化で社会主義を肯定しながらも結果の平等を失ってきた経緯の中で、中国人は現実しか大事に思わなくなってしまったのではないだろうか。
4000年の歴史の意味を再度見直さないと、中国はただの金持ちと貧乏人の共存する、何の面白味もない国になってしまうかもしれない。